メイドの女の子と虎にならなかった男の子

今となっては笑い話だけど、あの夏の僕は1週間のうち「アイスコーヒー、氷抜きで」としか口を開かなかった。ずっとアルバイトをするか、家か近所の喫茶店で本を読んでいた。これはそんな夏の出来事の話だ。とはいえ、夢のない話なんだけど。通ってた喫茶店もチェーン店なくらいだし。

  • 本を読むようになった

その年の春まで夜勤のアルバイトをしていた僕は、不規則な生活とストレスでブクブクに太っていった。夜勤は経済的に僕を豊かにしたけど、代償として支払う体への負荷が大きすぎた。僕は夜勤をやめて、早朝勤務を始めた。6月くらいの事だったと思う。

朝起きてアルバイトに行く。夕方くらいまで働いて退勤する。そこから家に帰って毎日ずっとダラダラしていた。

家に帰ってからの自分の楽しみは長風呂だった。ブクブクの体を絞るためにも長風呂で汗をかく習慣は毎日欠かせなかった。そんな長風呂生活のお供に濡れても構わない古本は最適だった。幸い、僕の住む街は古本屋が沢山あったし、買う本には困らなかった。よくわからないB級評論から、有名な小説まで安くて面白そうならとにかく買ってみて、お風呂で読んでいた。気付いたら習慣付いていて喫茶店や移動中も少しづつ読み進めていた。

少し話が変わるようだけど、本好きな人の半分くらいは自意識の渦にとらわれていたり、「自分は周りとは違って物事をきちんと見据えている」みたいな選民思想みたいなものを抱えていて、端的に言えば、こじらせている人が多いと思う。いわゆる「過剰な自意識」というやつかもしれない、(勿論、僕もその一人だったし、今でもそういう人が大好きではある)そんな考えの殻に閉じこもるように毎日を過ごしていたから、基本的に誰ともしゃべらず、連絡も取らなかった。それは結果としてだけじゃなくて、自分から望んだ事でもあった。

己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった

当時の自分はまさにそんな状態だった。高校生の頃に感じるような悩みでお恥ずかしいですね。

  • メイド喫茶

そんなある日の事、音信不通気味な僕を見かねて、友人にメイド喫茶に誘われた。僕も少し興味から彼のお誘いは非常に嬉しかった。とはいえ、正直メイドさんをバカにしていたところもあったから、自分の立ち位置や生き方を肯定する良い機会になるのかもしれないくらいの気分でいた。(それが本当に良くない事だった)

行ったお店は僕の家から歩いて20分くらいの場所にあった。賑やかな僕の住む街を出て、小道に入りひっそりとした森のような住宅街の合間を抜けると少し寂れた商店街に出る。そこをまっすぐ突き進んで行くと、小洒落た外観のその場所にたどり着いた。

そこはシンプルな内装のとても静かなお店で、メニューもそこまで高くなかった。

その中に少しだけ目を引く女の子が働いていた。すらっとした容姿に、ふんわりとしたショートカットのその子はおっとりとした関西弁を話すのが印象的で、こういったお店に不慣れな自分にも誰とでも愛想よく話してくれた。

話題に困った時でも、彼女の知らないような本について語って押し付けるような事はせずに、いつでも当たり障りのない会話をしていた。彼女は僕の話をいつでも良い意味で話半分に聞いてくれたし、その距離感が何よりも気楽でよかった。

最初のうちは友人とたまに行くくらいだった。そもそもそれまでまともに喋っていない毎日だったから、人と話せる事が純粋に楽しかったし、ましてや女の子と話せるなんて中学生みたいにドキドキしていた。

こうして何度か行くうちに彼女と話したくてどんどん通いつめるようになっていた。

日中の営業だけでなく、深夜のバー営業も通った。行った時は毎回たくさん注文した。注文する時は必ず店員さんとお話できますからね。とはいえ通いつめると気持ち悪がられると思ってはいたんだけれど。

そこから、彼女と話したい一心で、アルバイトの時間を増やし、お昼ごはんや晩御飯の出費を抑えた。趣味の音楽にかかる出費もなるべく削るべく練習スタジオにもあまり行かなくなった。全ては彼女と少しでもお話したかったである。最高に気持ち悪いと言われそうだけど、当時の僕にはそれが全てだった。

本好きに限らず、こりきった自意識の世界で生きている人間(特に男)は、その内側にさりげなく入ってこられると弱いと思う。オタクが惚れやすいのもそんなのが理由かなぁとぼんやり考えてはいる。

文字通り駆け抜けたような夏の毎日だった。特に深夜営業で5時まで残ってからお店の外に出ると、もう空はほんのり明るくてとても心地よかった。時間がある限りいつでも来たいと思っていた。

  • 虎にならなかった僕の話

9月になったある日の事である。

バイトが終わって、お店に向かう前に一度、シャワーでも浴びようと思って浴室のシャワーの蛇口をひねると、冷たい水が勢い良く頭の先からつま先まで一気に伝わってきた。思わず情けない声を上げてしまった事を覚えている。

どうやらガスが止まっていた。というかどうやらどころじゃ無い。当たり前にガスが止まっていた。完全にメイド喫茶にお金を使い込すぎていた。すぐさま、なんてバカな事をしていたんだろうと思うとますます自分が情けなくなった。思い返すと、お金がなくてガス代が払えなくて、結局長風呂もできていなかったから、体重も元と変わっていないのだった。

すぐにシャワーを止めてタオルで体を拭いたけれど一度冷え切った体はそうそうあったかくはならなかった。まだ衣替えもしていなかったから部屋には長袖なんて無くて、盛ってるみたいに自分の抱きしめるように体をこすって、体を温めていた。

それから、もうメイド喫茶には行かなくなったし、これはだいぶ昔の話だから、正直なところ、お店の場所すらぼんやりとしか覚えていない。

本は続けて読んでいるけど、今の自分は友人と良く話すようになった。自分でも自分の事を俗物だと思っているけど、それなりに楽しく暮らしている。

書を捨てよ、町へ出ようというわけでもないけど、よく学ぶ事は大切だけど、沢山いろんな人と話す事はもっと大切だって昔の哲学者も言っていた気がする。誰が言ったのかも今じゃ覚えていなんだけど。