デミアン・チャゼル、暗い青春の意趣返し『セッション』(2014年)

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「今さらセッションの感想?」と思われるかもしれないが、書かずにおれないので、書く。

これは俺のデミアン・チャゼル監督、脚本『セッション』(2014)の感想だ。
9/18日にレンタル解禁になったので観たのだ。

 


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『セッション』が話題になっていることは知っていた。
ただ、ネットに散らばる感想を一切読まなかったので、セッションについての前情報は「ハートマン軍曹みたいなおっさんが出てきて若い音楽家をいじめ抜くらしい」しかなかった。
今をもってしても、ほかの人が書いた感想やレビューは読んでいない。ウィキペディアしか読んでいない。

『セッション』をラストまで観て「いったいこれはなんなんだ! どういうことなのだ!」と心がかき乱され腹が立ったのだが、映画を見て怒ることがない俺が怒ったので、そんじょそこらの映画とは違うのだとおもう。

 

俺が言いいたいことは2つ。
観て本当によかった。悪趣味でしょうもなかったが、「いったいこれはなんなんだ!」と心がざわついた自分の気持ちは感動と呼べる本物の気持ちだ。

変な映画なので観て損はない(俺は二度と観ようとは思わない)。

以下はネタバレなので、まだ『セッション』を観ていない人はこの感想を読まずにTSUTAYAに行くなりしてほしい。

 

 

 

 


 

この映画はフレッチャーとニーマンが閉じこもった二人の世界で夫婦喧嘩をしているだけの話だ。

勝負はゲタを履くまで分からないように、映画はスタッフロールが流れるまで分からないのだが、俺はラストまで観て確信した。

この映画、劇中でフレッチャーとニーマンを評価する第三者が一人も出てこない。
こいつらの演奏は劇中の扱いでも、俺が聴いていても、良い演奏だとはまったく思えない。

 


 

フレッチャーについての劇中の評価。

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・指導者としてのフレッチャーを評価をしている人物は劇中には出てこない。
ニーマンがフレッチャーの結成した秘密クラブめいたバンドメンバーに選ばれたことで、ニーマンのクラスの生徒が「くそーニーマンめ! うらやましいぜ!」と嫉妬しているそぶりは見受けられない。
フレッチャーの結成したバンドメンバーはもうすっかりフレッチャーに洗脳されているので、バンドメンバーがフレッチャーを評価しても、それはアテにはしない。
と、言いたいところだが、そもそもフレッチャーバンド(便宜上そう呼ぶ)のメンバーはフレッチャーの指導者としての手腕について一切言及していない。

・ピアニストとしてのフレッチャーを評価している人物も登場しない。
映画の後半、ライブハウス兼バーでフレッチャーがピアノを演奏しているが、超絶技巧を見せるわけでもなくポロンポロンと鍵盤を押しているようで特にうまいとは思えない。ついでに、フレッチャーの演奏に尺が取られていないので「パッとしないな」以外の感想がない。

フレッチャーの過去に触れるなりして
「フレッチャーは問題ありだが指導者・指揮者としては抜群の技量だ」
あるいは、
「彼もまた偉大なプレイヤーだったのだ」
そんな一言でもあれば「作中でそう言っているからそうなのだ」と納得することができたのだが……。

 


 

ニーマンくんについての劇中での評価。

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・ニーマンの通う学校を評価している人間がいない。
ニーマンはシャッファー音楽学校に通っているらしいが、架空の学校なのですごいのかどうなのかよくわからん。
作中では「アメリカで最高の音楽学校」と言われているが、それも鵜呑みにはできない。
なぜならそう言っているのは、ほかならぬニーマン自身だけなのだから。

これは極論だが、ニーマンくんの通うシャッファー音楽学校が、楽器に異常な執着をもつパワー系精神疾患患者が通う養護学校の可能性すらある。
ってのはまあ冗談だとして、ニーマンくんがパッとしない音楽大学に通っている可能性がある(書いておいてなんだけど、俺としては学歴でハクはつくとは思うが、学歴だけで演奏できるものではないとも思う)。

劇中、意識がBIGになってしまったニーマンが親戚の集まりで「オレって超エリートだから脳みそ筋肉がイキがるなよな」と言っていても、だれも相手にしていない。

 

・ニーマンの演奏を評価しているのはフレッチャーだけ。
観ればわかると思うが、本当にフレッチャーしかニーマンを評価していないのだ。
コンクールの際にドラム担当のタナーが楽譜をなくしたのでニーマンが代打でドラムを叩いたが、それによってどこからかスカウトが来たわけでもない。
ニーマンはフレッチャー以外のバンドでプレイしていない。声もかかっていない。過去、どこかでドラムを叩いていたかどうかすら怪しい。
学校でもパッとしない。フレッチャーバンドで才能が開花して、クラスの同級生が嫉妬している様子もない。他の教師から評価されているわけでもない。
彼女や家族の前で演奏して「すごいわ!」と言われることもない。
フレッチャーバンドのメンバーから称賛されることもない。

なぜなら、最終的に評価を下すのはフレッチャーだから。
せいぜい、「暗譜してるからタナーよりはすごいんだな」と「作中のフレッチャーバンドの誰よりもガッツだけはあるんだな」程度である。

 

以上の理由で、フレッチャーとニーマンが関わった演奏は、劇中の扱いではただの自己満足でしかないのだと俺は確信した。


この演奏、聴いていて楽しいか?

 

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劇中で自己満足の世界に入ってしまった二人の演奏の評価を覆すことができるのは、この映画を観ている観客の感想だけ。
この映画を一人で観て、一人で思ったことを感覚的に書いている俺だけ。ここは俺のチラシの裏だ。
『セッション』の演奏を聴いて「よかった!」と思う人もいるだろう。音楽は人それぞれ好みがあると思う。そして、これから書くことは俺の好みの話だ。
まず、俺がフレッチャーのこだわる完璧な演奏というものにまったく魅力を感じない。
この映画はフレッチャーのザーメンのかかった演奏しか流れない。
フレッチャーの関わっていない演奏は登場しない。

「フレッチャーは手数が多くて演奏が早ければいいと思ってるの? じゃあメタルでもやれば?」
「そんなに完璧なものが好きなら一人で自分の満足するようにDTMでもやってれば?」
としか思わなかった。

そもそもフレッチャーはプロとして観客を楽しませるという視点が欠如している。
ラストの楽譜差し替えで演奏中断など、最たる例。会場にいる観客の心中やいかに。
ニーマンもニーマンで、フレッチャーに認められる以外に音楽へのアプローチがあることを知らない。

 

 

『セッション』を観ていると、どこが怒りのスイッチかわからない危険なオッサンに虐待される気弱な青年をえんえんと観ることになる。
「ああ、そりゃフレッチャーも怒るわ~、明らかに半音ずれてるもんな~」
だとか
「俺もこういうのイラつくよ。聴いててテンポおかしいしいもん」
なんて観かたは俺にはできないし、皆にもできないと思う。
ニーマンの演奏のアラは観客の誰にもわからない。
ニーマンが演奏をしても
「どうせまたフレッチャーに怒られるんだろうな……」
「この演奏も失敗なんだろうな……俺には判断できないけど」
と、すっかり委縮してしまって気持ちよく演奏を聴くことができなかった。

どんなスポ根作品でも、最終的に結果は劇中の第三者によって下される。
劇中の第三者とは、試合の相手だったり、観客のリアクションだったり、料理コンテストの審査員だったりする。
誰でも見てわかる、勝ち負けである。これは絶対だ。

勝った負けた、失敗した成功したなどのドラマがあるが、『セッション』はそういう作品ではなかったのだ。
プレイスタイルも十人十色だ。コーチのメソッドやスタンスもしかり。
しかし、この作品では一つの道しか登場しない。
フレッチャーメソッドでシゴかれ続ける。
それ以外にサクセスの道は存在しない世界だ。

『セッション』のニーマンの演奏は、劇中の観客の拍手か、プロからスカウトが来るかでしか評価は測れない。
が、それはこの映画では存在しなかったので観客が評価するしかなくなる。
俺はフレッチャーの音楽もニーマンの音楽も評価しない。


 

「セッションのラストってなんなんですか?」

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じゃあ『セッション』って何の話だったの?

評価の分かれるラストである。
フレッチャーが第二のチャーリー・パーカーを誕生させようとして、ニーマンを極限状態に追い込んだのか?
それとも密告を行ったニーマンへのフレッチャーが報復を試みたのか?
そもそも、ニーマンはフレッチャーを密告したのか?

 

そんなものはね、ど~~~~~~~~~~でもいいんだよ。
ラストで荒れ狂うニーマンを見たフレッチャーが「お、なんだよニーマン。ガッツあるじゃん」とうろたえながらもニーマンを認めるような表情を見せたので「なんだこの話は。これではいくらなんでも陳腐すぎる。こんな陳腐な話なわけがない。俺は騙されないしスカッとしないぞ」と動揺してしまったのだ。

 


 

今日の本題。
俺はこの作品のラストを、全体の評価を、監督・脚本のデミアン・チャゼルの過去を邪推して補うことにした。

この映画は非常にシンプルで、登場人物も少ない。フレッチャーに虐待されるニーマンの物語だ。
それ以外のキャラクターはほとんど重要な役割ではない。よって尺も取られず、脚本の都合のいい時に登場する印象を与える。
例)ニーマンの意識がBIGになっちゃったときに無理くりフられて、今度は終盤でニーマンをフることで主人公の悲壮感を演出するためだけに登場する彼女のニコル。
ニーマンがつらい目に合うシーンだけはこれでもかと雑に誇張されている。
車がクラッシュしても這って会場まで行っちゃうし、ドラムをがんばるシーンでは絶対に手から大量の血が噴き出る(ラストの短いコンサートだけでも血が噴き出す)姿は誇張されすぎてもはやファンタジー。
ニーマンの思考パターンも至ってシンプル。承認欲求のみ。
が、フレッチャーの思考パターンは読めない、薄気味が悪い。なので、映画のラストの解釈も分かれている。

 

ニーマンもフレッチャーも他人の評価がなされていない。
最終的に二人だけの世界に入ってしまった。いわばタイマン。
作中ではフレッチャーの関わっていないジャズマンは存在すらしていない。
視野の狭い監督が作った閉じた世界の物語だぞこれは! いったいなんなんだ!

 

“デミアン・チャゼルは高校時代に、競争の激しいジャズバンドに所属し、本当に怖い思いをしたという。テレンス・フレッチャーというキャラクターにはその 経験が反映されている。その上でバディ・リッチのようなバンドリーダーを参考に練り上げたキャラクターだとチャゼルは語っている” wikipediaより
デミアン・チャゼルにとって高校時代の体験は相当なトラウマだったのではないか。

「高校の時のジャズの顧問は怖かったな。俺かわいそう」
「でも、もしかしたら本当に生徒と音楽のことを考えていたのかも」
「いや、そんなはずはない、あいつはただのクズ」

といった、自分の中でも煮え切らない気持ちを、この映画を撮ることで整理したかったのではないだろうか。

俺は思った。
『セッション』はデミアン・チャゼルが青春時代から今に至るまで尾を引いている嫌な思い出を映画で再現して、トラウマ克服を図った、創作療法めいた私小説なんだ、と。

そして、その私小説=『セッション』の中でもデミアン・チャゼルの心の折り合いは付けられなかった。
デミアン・チャゼルの気持ちはニーマンに代弁させることができるが、高校の時の顧問=フレッチャーの真意だけは今をもってしてもデミアン自身が分かりかねたのであのラストになったに違いない。
その結果、こうも観客の解釈の分かれる作品になってしまった。

 

ラストが「獅子は我が子を谷底に~」論法でフレッチャーがニーマンを成長させようとしたのか、フレッチャーがニーマンに復讐しようとしたか、どちらの解釈でも、ニーマンその演奏によってフレッチャーを見返した、ということだけは事実。
その一瞬だけ、スカッとするような気がする映画の作りになっているのは紛れもない。

スーパーパワー(ドラム技術)を主人公ニーマンに与え、“顧問=フレッチャーだけ”を見返したかったのだ。

 


 

監督が青年期のトラウマを克服したいがための作品にしか俺はもう思えない。

今まで「ニーマンとフレッチャーが劇中の誰からも評価されてねーし演奏もうまく思えねー」と散々書いたが、劇中で評価されていたら、それこそありきたりな作品になっていたと思う。
この映画は定石をことごとく外しているので、意外性と芸術性がある(ように感じられる)のだ。

これこそが、セッションの魅力なのだと思う。

 

俺としては、ラストでステージに戻ったニーマンが、ドラムスティックをフレッチャーの両目に突き刺して終わりでもよかったと思うよ!

 

サクセス本田

 

 

 

サクセス本田とフィーバー吉崎

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時代劇が大好きな無職のサクセス本田。
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