成熟と未熟の間① 『新世紀エヴァンゲリオン』

こんにちは。おかピーと申します。くろさわさんの紹介で、こちらに書かせていただくことになりました。テキトウに、というと失礼ですが、まぁ気楽に何か書かせていただければと思いますので、よろしくお願いします!!!!

このブログの趣旨としては内容自由、ということのようですが、なんらかの作品・文化の紹介や、それらについての考えなんかを書いていらっしゃる方が多く、僕も音楽やら映画やらアニメやらが好きな人間なので、そういう感じのことを書いていこうと考えております。

で、唐突ですが、僕はしょっちゅう成熟ということについて考えます。僕が言う「成熟」というのは、ぼんやりとした言い方をすれば「大人であること」、ネットスラング的に言えば「リア充であること」(死語?)、つまり「社会に適応している」というようなことです。なんでそういうことについて考えるのかというと、たぶん僕が成熟できておらず、うまく社会に適応できないと感じているからだと思います。さらに言えば、うまく社会に適応できない、だからといって成熟しなくても良いというわけではなく、生きていくためには否が応でも社会に適応しなくてはならない、というジレンマを抱えているからだと思います。まぁ別にこれは僕だけの問題というだけでなく、そんなようなことを感じている方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。ともあれ、僕にとってそのことはかなりの関心事で、例えば、音楽を聴いたり映画やアニメを観たりするときも、その成熟という観点からいろいろ考えたりすることが多いのです。まぁそもそもそういった種々の文化というもの自体が、社会の中では得られない理想や価値を表現するものであるという側面を持っており、社会=成熟とは対をなす存在であると思うので、僕がそういう見方をすることはあまり特異なことではないとは思いますが。

それで今回は、『新世紀エヴァンゲリオン(以下エヴァと略す)』というアニメについて、この作品がその成熟についての問題をクリティカルに描いた作品である、ということを書いてみようと思います。「今さらエヴァて」という、マジ呆れかえった感じの声が聞こえてきそうですが、まぁまぁちょっと書かせてください。


1.アルエはレイなのか

僕はアスカ派です

僕はアスカ派です

第一にエヴァという作品において大切なのはやはり、レイとアスカという二人のヒロインです。彼女たちのキャラクターについて少し考えてみましょう。例えばBUMP OF CHICKENという有名バンドの『アルエ』という曲があります。その曲の中でBUMP OF CHICKENは、アルエという綾波レイをモチーフにした女の子(アルエ=R.Aは綾波レイのイニシャル)を、内向的で「守ってあげたい」感じのキャラクターとして描いています。このイメージは綾波レイというキャラクターの一般像を表していると言えます。一方アスカは、「あんたバカァ?」という有名なセリフが表すように、気が強く社交的であり、レイとは真逆の性格の女の子として認識されているように思われます。

ここで彼女らを成熟という観点で見れば、レイはまだ自立していない脆弱な少女であり、アスカは自立していてしっかりとした大人である、というような見方ができるでしょう。しかしながら、本当にそう言って良いのでしょうか。実は彼女らのキャラクターの本質は、そのパブリックイメージとは真逆だと思います。アスカは、話の後半で使徒に過去のトラウマを掘り起こされたあたりから、だんだん他人を拒絶するようになり、さらにはエヴァに乗れない無力な女の子になってしまいます。一方レイはというと、意外に言動が据わっており、「あたしが死んでも代わりはいるもの」という有名なセリフが表すような、死をも恐れない勇猛果敢な行動を見せるようになります。このようにエヴァのヒロインたちは、その性格の表層と本質が真逆なのです。レイは少女に見えるが実は大人(設定を考えれば「母」)なのであり、アスカは大人のフリをしているが実は子供、だと言うことができるのです。


2.大人のフリをした子供たち

全きクソ野郎

そして、この表層と本質が真逆であるということは、実はヒロインたちだけでなく、主要キャラクターの多くに言えることなのです。その筆頭が主人公の父碇ゲンドウです。彼は第一話においては、「エヴァに乗らないのなら帰れ」などと発言し、いかにも「社会に適応できないヤツは生きる価値がない」とでも言いたげな感じのキャラクターでした。しかし蓋を開けてみれば彼は、人々の心の不和を無くすため、またもっと言えば死んだ最愛の妻ともう一度会いたいがために、全人類の精神を一つにまとめあげてしまうという荒唐無稽な計画を推し進める狂人だったのです。この碇ゲンドウの態度は、いかにもオタク的で子供じみています。また、それだけではありません。シンジのそばにいる姉貴分的キャラの葛城ミサトも、その内面では強烈なファザーコンプレックスを引きずっており、肝心なところで頼りがいのない人物として描かれていますし、またその友人の赤城リツコも、これまた強烈なマザーコンプレックスを引きずっており、碇ゲンドウに依存している弱い女性として描かれています。このように、シンジの周りにいる大人たちは、頼れる大人と見せかけておいて、実は全員が頼れる大人どころか、成熟し切れていない・自立できていないキャラクターばかりなのです。

こうしてアスカや大人たちは、現実を直視せず成熟を拒否し、そのおかげで世界は崩壊していきます。そしてそれによりシンジは大いに苦しむことになります。ストーリーの初めの方ではシンジの成長物語という感じもあったエヴァですが、彼の自己の存在意義についての葛藤は延々と続き、いつまでたっても成長できないままです。中でも第16話の「好きなこと見つけて、そればっかりやってて、何が悪いんだよ!」というセリフは、彼の魂の叫びであったと思います。しかし、周りの大人が成熟していないので、彼が成長できないのも当然なのです。「好きなこと見つけて~」というセリフはシンジくんの叫びであると同時に、その周りの大人たちの叫びだったとも言えるかもしれません。

この、大人であるべき存在が大人に成り切れておらず、またまだ子供でいて良いはずのシンジ君ばかりが苦しみ、成長できないという状況に、エヴァという作品の一つの眼目があるのではないかと思います。その状況はまさに、僕・僕らが直面している、成熟しなければならないのに成熟できない、という現実の写しなのです。我々の思い悩みがストーリーを通して浮き彫りにされ、さらにそこに深い共感や絶望や安堵を感じられるという所に、エヴァという作品の代えがたい魅力があるのだと、僕は常々考えています。


3.ガイナックスの思想

何がなんだかわからない劇場版

何がなんだかわからない劇場版

さて、このエヴァのストーリーは最終的にどう決着するのでしょうか。シンジ君はこの辛く、苦しい状況の中で奮闘していきます。なんだかあまりにややこしいので、僕も正直話の流れをよく覚えていないのですが、旧エヴァ最終章の『Air/まごころを君に』においてシンジは、紆余曲折あった後、父の人類補完計画を打ち破り人類の精神の統合を拒否し、他人の存在・自己の存在を認めようとするというような、ようするにシンジ君の社会復帰ストーリーだったと記憶しています。そしてラスト、シンジは居て欲しいと望んだ他人=アスカに恐怖し絞殺を図るが、逆にアスカに頬を撫でられ滂沱してしまい、さらにそれに対してアスカが「気持ち悪い」と言う、という有名なシーンで、エヴァは幕を閉じます。このシーンについては、他者の存在(≒社会で生きること)への愛憎相反する感情を含ませてはいるが、他者の存在を肯定したいという前向きな考えの表出なのである、という見方をされることが多いようです。そしてそれは、エヴァの監督の庵野秀明が当時、自閉的なオタク・アニメファン=未熟な存在と決別する態度を見せていた、ということからも裏付けられているのです。

けれども僕は、他者の存在を肯定した=シンジ君は曲りなりにも成長できた、という見方は一元的だと思います。庵野秀明は、たしかにそのように考えていたのかもしれません。彼は絶望に彩られたエヴァのストーリーを、最終的には否定したかったのかもしれません。しかし、成熟できないという絶望を簡単に覆すことができるのでしょうか。もちろん、生きるためにはどうしても自閉からの脱却が必要になります。ですが、成熟というものは少しずつ、時には未熟方向に退行しながらも、探り探り進めていくようなものではないでしょうか。この庵野秀明の態度は楽観的のように思えます。さらに言えば、オタク的な存在が突如、「成熟しなければならないんだ」と言い出すようなことは、危険であるとすら思えます。それは単なる同族嫌悪、あるいは未熟志向の裏返しにすぎないのではないでしょうか。まぁ庵野という人が実際どんなことを考えていたのかは分かりませんが、僕はエヴァが表現していったような絶望感を覆すことは、なかなかに難しいことだと考えます。

庵野の後の世代のガイナックスのアニメーターとして、『フリクリ』の監督の鶴巻和哉や、『天元突破グレンラガン』の監督の今石洋之がいます。フリクリやグレンラガンのテーマは基本的に主人公の成長物語だと見ることができ、庵野から続く「成熟の肯定」という思想がガイナックスにはある、と言うことができると思います。フリクリなんかは、僕はとても好きで、pillows=日本のオルタナティブ・ロックとアニメがここまで調和するなんて、と観るたびに感動するほどなのですが、ストーリーがなんとなくしっくり来ないと感じるのは、僕が結局のところこのガイナックスの思想に疑問を持っているからでしょう。90年代~00年代の日本のアニメを牽引してきたと言えるガイナックスの作品群は、意外とオタク=未熟志向の人向けではない、と僕には思われるのです。そして、現在進行中のエヴァ新劇場版にも、このガイナックスの思想が色濃く反映されているのではと僕は感じています。『Q』でアスカが悩めるシンジを「ガキ」とか言い出すんですから間違いないでしょう(新劇場版のアスカは今のところ、彼女のパブリックイメージ通りのキャラクターになっているとも言えます。そしてそれは『破』のレイにも言えることです)。


だらだらと書いてきましたが、ともかく成熟/未熟ということをよく考える僕にとって、エヴァはこんな風に見える、ということが少しでもお分かりいただけ、エヴァの見方の一助になれば、と思います。初回から「エヴァについて熱く語ってしまう」という、かなり黒歴史の典型例みたいなことをやってしまいましたが、大丈夫でしょうか。一応次回は、同じ成熟ということをテーマに、フリッパーズ・ギターという一昔前のバンドについて、またいろいろ書こうと思っております。なんだか90年代のこじらせた大学生みたいなラインナップで恐縮ですが、さらなる黒歴史にならないことを祈りつつやっていこうと思いますので、よろしくお願いします!