勘違いこそ美徳?受け手唯一のクリエイション?



「王将」って歌がありますね。村田英雄先生の「王将」。
同名映画の主題歌で、将棋の坂田三吉物語の映画なんですが、実際には
「ふぅ?け?ばとぶよぉな?」という歌い出しの主題歌の方が有名になっている感はあります。

あの王将、シングルカット(今風にいうと。)されてるので当然のように2番があります。というか映画でも流れたような気がしますね。
その2番の歌詞なんですが、

「あの手 この手の 思案を胸に 破れ長屋で 今年も食えた

という一節があり、
子供心に「めっちゃかっこいい表現だな」と思っていました。
全てが水物の勝負の世界で今日も飯が食えるか、食えないか。
そういう中で1日1日を戦い抜いて、なんとか1年が、「食えた」。
渋い。かっこいい表現だ、と思っていました。

でもそれが聞き間違いで、
実際の歌詞は「今年も暮れた」だったんですね。
普通かよ。

参考:


みんなが大嫌いなラブライブ!というアニメーションがあります。
アニメというか電撃G’sマガジンが連載する企画(「こんな番組あったら」的な感じでOPやEDだけ作っておいて、設定やらさらなる展開をどんどん後付けしていくみたいなやつで、例えばごっつええ感じの「エキセントリック少年ボーイ」だったり機動戦艦ナデシコの「ゲキガンガー」だったり、そういう感じのやつです。みんな好きでしょ。)なんですが、
そんなラブライブ!内のスクールアイドルμ’sの1stシングル、「僕らのLIVE 君とのLIFE」でも、僕が大好きな歌詞がありました。

「望みは尾を引くね」

すげー意味深。
望みは尾を引く、たしかに。わかる。
さすが畑亜貴さん。
僕はこの歌詞に初めて触れた時、すでにラブライブ!1期アニメーションを見終わった後だったので、真っ先に思い浮かんだのが矢澤にこというキャラクター。

ーーー高校生活を賭けてアイドルを志し、1年、2年とその賭けに負けて、腐っていた彼女。
その彼女にまた戦えと強いる下級生たち。
最初は抵抗していたものの、やはり「望みが尾を引いて」再び立ち上がっていく・・・

という謎のナレーションまで聞こえてきていたのに、本当は
「望みは大きくね」
でした。
普通かよ。

参考:


音楽以外でも、
メジャーどころですが「ジョジョの奇妙な冒険」の1巻での有名な誤植
「なにをするだァー!」
も、慌てて田舎者口調が出ちゃったスピード感が出ていいじゃないのって思ってましたけど、最近では「何をするんだー!」に訂正されてるらしいです。

参考:
images


もう一つ漫画ネタで言うと能條純一「月下の棋士」(思えば幼少期は将棋ものばかりに触れていました)の一幕、その当時の名人にコワモテの棋士がグラサン姿で挑むシーン。

名人「なんだその色眼鏡は」
挑戦者「何かと言われても・・・ファッションだよ」

くそしびい。
このやり取り、限りなく相手をコケにしてるこの感じ。
ふてぶてしさMAX。まさに盤外戦。

と思っていて数年ぶりに読み返したら、目の病気で興奮すると裸眼では前が見えづらくなるから・・・みたいな話だった。
(参考画像なかった。)

なんだよそれ。俺の解釈の方が全然かっこよかったじゃん。

・・・


子供の頃から歌詞カードは読まない派でした。
そのせいでとにかく僕の人生は聞き間違えや勘違いが多い。
おまけに目も悪いからいろんなものを見間違う。
あと早とちりもする。どうしようもないやつ。

ただ、大人になって、ある種開き直りかもしれないけど、それでいいんじゃないかと思うようになりました。
日常生活での間違いは俺が悪いにしても、
作品の解釈については、勘違いはされるやつが悪い。する方は悪くない。

自分がある程度作り手の目線に立つようになってからか、
作り手が受け手に対して「受け方」の強制は出来ない。ということに気づきました。

例えば音楽は、演奏者や歌手が誰であっても、アウトプットされたものは信号の配列であり、空気の振動でしかないわけで、
聞き手はその『空気の振動』を鼓膜を通して情報を受け取るだけであって、
その『空気の振動』はただの自然現象で、その結果、100人いれば100通りの受け取り方がある。
それが表現というものの本質だと思います。

どうしてもわかって欲しい時に作り手ができることといえば、できるだけわかりやすく誤解を生まないようにディティールを伝えることだけ。
すこしでも曲解の余地があれば、いくらでも、どうとでも読み取れてしまうし、ある意味それが真実となってしまう。そういうものだと思います。
逆に作り手は自分の意思をぐにゃぐにゃに捻じ曲げられることを覚悟でもって世に作品を出すべきだと思っています。それが嫌なら誰にも見せないことです。


ショパンは「別れの曲」を書いたわけではないと言うし、
ゲーテが「もっと光を」と言ったのも単純に部屋が暗かったからと聞いたことがあります。(これは別に作品ではないから少し気の毒ではある)
となりのトトロの都市伝説、あれも僕は好きなんです。その方が面白いから。
BUMP OF CHICKEN「天体観測」の『君』故人説(高校の時に流行りました)、それも好きです。その方が面白い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」、みくるはキョンの妹だ。間違いない。
「チ・ン・ピ・ラ」という映画(僕も大好きな映画)でも、作中重要人物の川地民生とラストシーンの大出俊を同一人物だと捉えた超解釈のレビューを見たことがあります。それはそれでめちゃくちゃ面白いじゃん。

・・・


要は、面白いか面白くないか、それに尽きると思うんですよ。
たとえ勘違いでも、間違いでも、ファンに怒鳴られようと、作者に直接訂正されようと、僕の脳が『そう解釈した方が面白い』と感じるならそれが僕の中での真実になる。
「実は◯◯でした」なんて言葉に何の強制力もないし、だからどうしたの?となるだけ。

もっと話を飛躍させれば、すでに作られて世の中に発表された作品を、捻じ曲げて改変できる力というのが、受け手の自由な解釈、もっと言えば「勘違い」しかないのだと思います。
勘違いが、受け手が発揮できる唯一のクリエイティビティ。そこには無限の可能性がある。一通りだった物語に無数の分岐が与えられる。むしろ、その「作者が考えた元々の意味より、もっといいと思えるものを頭の中で作り出せている」ということを自分自身で尊重すべきなのではないか、と思うのです。

そして、その『自由な解釈』『勘違い』にある種の期待をして、作り手は今日も作品を不特定多数の人の前に発表するのだと思います。

まあこれも一個人的な主張?というか別に誰にわかって欲しいわけではないけど、昔から思っている話でした。
エッセイです。

おぉ(もはや不定期連載)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

気だるいOLのエッセイ的な文章も読めるブログマガジン・MOGAKU
近々リニューアルするらしい!

wordpress-logo-notext-rgb

twitterでいますぐフォローだ!
https://twitter.com/mogaku_blog