DQN中年のヨタ話も、200年寝かせれば金言 『夢酔独言』勝小吉

img_3??勝海舟あるいは勝麟太郎、なんだか幕末ですごいことをした人ですね。
西郷どんとお話しして、無血開城をしたり、戦艦を走らせたりしているようです。
創作物ではやたら視野が広くて、細かいことにこだわらない飄々とした人として描かれています。あと、坂本龍馬を導いたりもしていますね。

それはともかくとして。

今日はそんな勝海舟のオヤジ、勝小吉の話です。

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勝小吉(1802年-1850年)はいろいろあったのちに22歳で勝海舟を授かり、37歳で隠居し、42歳でこの『夢酔独言』を書き、47歳で死んでいます。

この「いろいろあったのち」がくせ者です、
なにせこの勝小吉という人物、そうとうアナーキーな一生を送っています。
その一生を、江戸時代に書かれたとはおもえないほど口語体も入ったみずみずしい文体で書に残しているのです。

今回は勝部真長編、平凡社ライブラリーより発行の『夢酔独言』の引用を交えながら勝小吉を紹介します。
()内の文字はさらに読みやすくするために私、フィーバー吉崎が付けた注釈です。仮名遣いも現代のものに直しておきます。   例)おもふ→おもう

“ おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもう
故に孫やひこ(ひ孫)のためにはなしてきかせるが
能々(よくよく)不法もの 馬鹿者のいましめにするがいいぜ ”

これが『夢酔独言』の序文です。かなりわかりやすい文体だと思います。
「~いましめにするがいいぜ」というくだけた表現で、ぐっと勝小吉を身近に感じた人も多いのではないでしょうか。

『夢酔独言』は上記の序文通り
「俺も昔は馬鹿でワルだったけどさ、子孫であるお前らは俺みたいになるなよ。いまからそのころの話をするから」
という、飲み屋のおっさんの昔はワルだった自慢と同じものがえんえんと続きます。


“ おれが五つの年、前町の仕ごと師の子の長吉というやつと凧喧嘩をしたが、向こうは年もおれより三つばかりおおきいゆえ、
おれが凧をとって破り、糸もとりおったゆえむなぐらをとって、切り石(割れて角だった石)で長吉のつらをぶったゆえ、
くちべろをぶちこわして、血が大そう流れて泣きおった。
そのときのおれの親父が庭の垣根から見ておって侍を迎えによこしてきたから
内へかえったら、親父がおこって
「人の子に傷をつけてすむか、すまぬか。おのれのようなやつはすておかれず」
とて、縁のはしらにおれをくくって、庭下駄であたまをぶちやぶられた。
いまにそのきづ(傷)がはげて、くぼんでいるが、
さかやき(図1参照)をする(剃る)時は、いつもかみすり(カミソリ)がひっかかって、血が出る。
そのたびに長吉のことを思い出す。 ”

k1379130634図1 さかやき

ずっとこの調子です。幼少の喧嘩、腕白小僧話が続きます。

そして勝小吉14才、アナーキーさが加速していきます。家から金を盗んで江戸を飛び出し京都を目指しはじめたのです。

“ ふらふらゆくと、町人の二人連れが後よりきておれに「どこへゆく」ときくから
「あてはないが上方へゆく」といったら「わしも上方まで行くからいっしょにゆけ」
といいおったゆえ、おれも力を得ていっしょに行って小田原へとまった。
その時「あしたは御関所だが、手形はもっているか」というゆえ「そんな物はしらぬ」
といったら「銭を二百文だせ。手形を宿で貰ってやる」というから、そいつがいうとおりにして関所も越したが、浜松へ留まった時は、二人が道々よくせわをしてくれたから、少し心が緩んで、はだかで寝たが、その晩にきものも大小(刀と脇差)も、腹にくくしつけた金もみんな取られた。 ”

浜松で町人二人組に丸裸にされた小吉は乞食をしながら京都を目指すことになります。

道中で乞食に「俺の縄張りを荒らすんじゃねえ新入り!」とボコられたり、
乗馬の練習をしている武士を「へたくそ!」と笑ったらボコられたり、
その武士に「おまえ侍の子だろ、養子にならないか」と誘われたり、
野宿していたら崖から落ちて金玉を潰したり(江戸に帰った後二年間家の中で療養するハメに)、
漁師の家に泊まって「俺の子にならねえか」と誘われたり、
その漁師の金を盗んで江戸に帰ったりします。

めちゃくちゃですね。

その後、16歳で武士として働くことになるのですが、そのエピソードもイカしています。
“ 頭(上司)の宅で帳面がでているに銘々(それぞれ)名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくってこまった。人に頼んで書いて貰った。 ”

その後、吉原で女遊びを覚えた16歳の小吉は信州から届いた7000両の年貢から200両をパクって問題を起こしたりします。結局、親が建て替え、本人はしらを切りとおして事なきを得ます。

小吉の従弟宅の使用人・源兵衛が喧嘩の師匠らしく、一緒に喧嘩をしに行く話も狂っています。

“「おれは喧嘩は大好きだが、ちいさいうちから度々したが、おもしろいものだ」
といったら、
「さようでございますか。あさっては蔵前の八幡の祭がありますが一喧嘩やりましょうから、いっしょにいらっしゃいまして一勝負なさいまし」
といったから、約束をして帰った。(中略)
八幡へはいると、向こうよりきいたふうのやつが二、三人で鼻歌をうたってくるゆえ、一番に忠次郎(小吉の従弟)がそいつへ唾を顔へしかけったが、その野郎が腹を立てて、下駄でぶってかかりおった。
そうすると俺がにぎりこぶしで横つらをなぐってやると、あとのやつらが総がかりにぶってかかりおるから、めくらなぐりにしたらみんなにげおったゆえに、八幡にいってぶらぶらしていると、二十人ばかり長鳶(家屋解体用の器具 図2)を持ってきおった。(中略)
あんなにひどいことはなかったよ。”

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図2 長鳶

『夢酔独言』でおもしろいな、とおもう部分は詳細が事細かに書いてあるところです。
5W1Hがしっかり書いてあります。そして喧嘩をした相手がその後どこで働いたとか、今は丸くなってつまらない人間になったとかが書いてあります。

“ あるとき木刀にておもうさま叩きちらし、あくたいをついてなかしてやった。
師匠にひどくしかられた。今は石川太郎左衛門とて御徒頭を勤めているが、古狸にて、今は何にもならぬ、女を見たような馬鹿野郎だ。 ”

などなど。

このあとの小吉は喧嘩に明け暮れたりめちゃくちゃなことをします。見かねた親が家の座敷牢に小吉を幽閉することになります。この座敷牢で21才から24才まで過ごすことになります。

“ 家へ帰ったら、座敷へ三畳の檻をこしらえていて、おれをぶちこんだ。
それから色々工夫して一ヶ月もたたぬうちに檻の柱を二本抜けるようにしておいたが、よくよく考えたところが、おれがわりいから起きたことだ、と気が付いたから、檻の中で手習(勉強)をはじめた。 ”

 

家に帰ったら座敷牢が作ってあって、入ることになることなんかふつうあり得ないですよね。

いかがだったでしょうか? 『夢酔独言』を読みたくなってきましたね!

なお、平凡社ライブラリーの『夢酔独言』には勝小吉の剣術の師匠・平山行蔵(通称・平子龍)について書いた『平子龍先生遺事』も収録されています。そちらも狂った人物でおすすめです。

平山行蔵

“行蔵は背丈が低かったにもかかわらず、3尺8寸(約115cm)という長い刀を差していた。(補足、勝小吉が「先生その刀長すぎていざというとき抜けなくないっすか?」ときいたが「そんなことはない」といった。しかし、街で暴漢に襲われた際に刀が抜けなかった)
毎朝起きると7尺の棒を振ること500回、長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこと200回 – 300回、読書をしながらケヤキの板を両拳で叩いて拳骨を鍛え、書に倦むと水風呂に入って惰気を払うといった生活で、61歳になるまでは土間に寝、夜具を用いなかった。
(中略)
扶持米を俵のまま玄関に起き、玄米をそのまま炊いて食べた。
居間の押し入れに酒の入った4斗樽を据え付けて冷や酒を呑むことは、晩年、中風のために起居が不自由になってもやめなかった。
「べらぼうめ」が口癖で、世の文弱な風潮に憤激しながら没したという。
1828年(文政11年)12月14日没。享年70。四谷愛住町、永昌寺に葬る。”


飲み屋で聞くおっさんのヨタ話は正直言ってそんなに価値がないように感じますが、話の舞台が昔になればなるほど価値が出てくるような気がします。

「昔は渋谷にチーマーが居てこんな生態だった。あの駅前に昔はこういう建物があってみんなそこで集まっていた」
とか、そういう情報ですら価値があるような気がするから不思議です。少なくとも、私は興味があります。
200年近く昔のヨタ話ならますます価値があるような気がしませんか?
勝小吉は勝海舟の父ということで知名度がありますが、私はこの勝小吉がもし、偉人と関係のない、何も為さなかった名もなき武士であっても『夢酔独言』に資料的な価値が生まれていたと思います。

現代を生きるヤンキーが書くような
「ラウンドワンからの~立川のびくドンなう!まえちゃんびくドンでチーズハンバーグたのんだら違うの来たから店員殴って警察来ててやば。ウケるんですけど」
みたいなしょーもない文章が、200年後には価値が出ている、かもしれないですね。

火曜担当 フィーバー吉崎

サクセス本田とフィーバー吉崎

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・火曜日担当
時代劇が大好きな無職のサクセス本田。
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